春香Pの雑記

アイマスのこと、書評、日記など。

『城崎にて』

生死の偶 思わす道の 朽ち果実

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山手線に轢かれた志賀直哉は、城崎に湯治に訪れる。彼はその時の経験に基づいて、『城崎にて』という私小説を書き上げた。

たまたま蜂・ねずみ・イモリの死を目の当たりにし、事故から助かった自分との対比から、「偶然、自分は助かったのだ。生と死の間に大きな違いはなく、隣り合わせのものだ」という感覚を得る、という物語である。中学生の頃に国語の教科書で読んで、以来なぜか頭にこびりついている。

小僧の神様・城の崎にて (新潮文庫)

小僧の神様・城の崎にて (新潮文庫)

  • 作者:志賀 直哉
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2005/04
  • メディア: 文庫
 

 

せっかく城崎を訪れたから、『城崎にて』の舞台である志賀直哉の散歩コースを歩きたいと思った。どうも作中に出てくる桑の木が残っている、という。そこに向けて歩くことにした。

温泉街からは割と長い道のりだ。桑の木を目指す途中で、不自然に置かれた柿のような実とガードレールのところに差し込まれた赤い果実を見つけた。

その時、不意に「事故で亡くなった人への供え物ではないか」と思った。全く違うかもしれないとも思ったが、そうかもしれないとも思った。先日、道端で事故の情報を求める看板と供えてあった献花を目にしていたことを思い出し、「自分が事故で突然死んでもおかしくないのだ」ということも考えた。

 

志賀直哉が城崎で体感した「生と死」にまつわる出来事を、追体験したような気がして、不思議に感じた。

 

その後、桑の木に着いた。当時の桑の木ではなく、三代目の桑の木ということだった。

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竹田城にて

山城の 浮き出でたるは 荒涼

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村上源氏の流れであり、一時期は播磨一帯を支配した赤松氏。大名家としての赤松は、竹田城主であった赤松広秀が家康に切腹を命じられたことで終わりを告げる。

城主を失った竹田城は、太平の世となってからは用をなさず、ただ朽ちていく。

周りの山から隔たれてひとつ前にせりだし、粗い土のような色で遺構を残す姿は、どこか寂しい感じを与える。

姫路にて

白鷺の 空気をつんざく スナイパー

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姫路城に至近の展望台で、ぼーっと城を眺めていたら、掃除のおばちゃんが「是非望遠鏡を覗いてみてください」と言う。‬
‪覗いてみると、なるほど天守にいる人の動きまでよく見える。‬望遠鏡にケータイのレンズを当てて写真を撮ってみる。あたかもスナイパーが照準器に目を当て、狙いを定めているような気になった。

俳句(尾道にて)

松山からバスに乗り、尾道を訪れた。

天候に恵まれ、尾道水道の眺望を最大限楽しめたように思う。

以下、詠んだ歌。

 

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尾道や 雷鳴にても まだ明し

(突然雲がかかり、雷鳴が轟き始めた。それでもなお尾道水道と山々はまだ明るい)

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松葉水 急いて海へと 駆け落ちる

(大雨となった。松葉に落ちた雨が雫となり、滴り落ちていく。その水が尾道の険しい坂を流れ、目の前の尾道水道に注ぎ込むまでに長い時間はかからないだろう)

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水道に カーテン降ろす 白雨かな

(大雨は目の前の視界をあっという間に狭めた。少し前まで明瞭だった対岸は、雨でよく見えない。夏の雨を指す言葉を調べると、白雨(はくう)という季語があって嬉しくなった)

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水道を 軽々超える 虹の橋

(雨が止む。通り雨だったらしい。にわかに暑さを取り戻した空に、虹がかかった。なんとも都合良く、尾道の水道を超えるように)

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尾道に 二重にかかる レインボー

(少しして、うっすらと2本目の虹。今まで見たことのないような完璧なかかり方。そのまま、あるがままに)

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雨の後 姿現す 瀬戸の島

(先ほどまで白雨に隠れていた島々が姿を見せ始める。虹と、なお残る霞が雨が降っていたことを示唆するようだ)

 

 

松山で詠んだ俳句

松山で、坂の上の雲ミュージアムを訪れた。

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坂の上の雲』と言えば、正岡子規・秋山兄弟(真之・好古)を主人公に、日露戦争前夜から日露戦争に至るまでを描いた司馬遼太郎の傑作だ。

実のところまだ途中までしか読んでいないのだが、司馬の類いまれなる人物描写や、徹底的なリサーチによって生み出される精緻な背景には驚かされる。

 

さて、館内では俳人正岡子規の生涯を取り上げる特別展が行われていた。

彼はそれまで絶対的なものとされていた古今集芭蕉に対して、初めてちゃんと批判的な眼差しを向け、自ら新しく俳句の体系を確立するも、34にして結核で夭折した人物である。

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そんな彼の読む俳句は写実的であり、あるものをあるがまま読むものが多い。

展示を見るなかでそのシンプルさが非常に潔く心地いいものに思えて、自分もマネして俳句を詠んでみようかという気になった。

 

せっかくなので、松山で撮った写真とともに、詠んだ句をここに載せておきたい。

 

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夏山や 空と海とを 分け隔つ

 

松山城天守閣付近から。空と海との境界線が、奥に見える山でくっきりとしている)

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落陽や 海を染めたる 蜜柑色

瀬戸内の 海に現る 夏蜜柑

 

(沈みゆく日が、自ら以上に濃い色に海を染めていく。城を訪れる前に愛媛のみかんジュースを飲んでいたことも思い出された)

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沈んでなお 海空彩る 夕陽かな

 

(日は奥の山に沈みこんだ。その後もなお、海空に明るさを与えている)

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人のなき 松山の城に ねこぞ住む

 

天守閣はすでに観覧時間が過ぎ、城から人は居なくなった。そこをねこがわがもの顔で進んでゆく)

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松山の 夕陽に映えたる 天守

 

(子規の詠んだ「松山や 秋より高い 天守閣」に寄せて作った。城がどこか寂しげな雰囲気をたたえているように見える)

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朱から紺 パレットの色 移らふ

 

松山城から見える空はびっくりするほど広かった。都内では感じられないその広さ、色のグラデーションを詠んでみた)

 

松山編は以上。

尾道編に続きます。

7/31 アイマスにおけるアイドルとプロデューサー(プレイヤー)、アイドルと声優に関する考察

まえがき

3年ほど前、大学にちょうど入学したころに、暇な時間があったので書いたアイマスに関する文章である。

プロデューサー意識がいかに生まれるのか、声優とアイドルの関係性はどんなものか、リアルライブをどう捉えるのかというところに主眼が置かれている。

今読むと稚拙極まりないし、誤りや詰めの甘いところが多く見られるが、そうしたものとして読むことで当時の認識を振り返ることができる。

その後、私の認識は、ほかのPの皆様と話す機会を得たり、無印の展開に出会ったり(再発見)、また、ミリオンの展開の進展等を経て、パラダイムシフトとでも呼ぶべき変化を見ている(特に、「プロデューサーという意識」に関する部分については、全く今の認識と異なるところでもある)。

しかし、今後自らの認識についての文章を書くヒントになるだろうという考えで、この文章をあげてみようという気になった。

また、読まれる方におかれては、私の文を批判的に読むことを通して認識を相対化する機会にしていただくことが可能かもしれない。

それは、Destinyの歌詞にあるような「出会いの体験」に対する感傷をより深めるものとなるかもしれないし、自らがいかなる立場でアイマスに向き合っているかを確認する場に足りえるかもしれない。少しでもそうした役割を果たせれば幸いである。

 

長く拙劣な文ではあるが、興味のある方には是非おつき合い願いたい。

 

以下、本文

 

THE IDOLM@STERにおけるアイドルとプロデューサー、及びアイドルと声優の関係性についての考察」

 

初めに、本文章はTHE IDOLM@STER(以後アイマス)の世界観の1ファンとしての立場からの考察である。

 

アイマスの世界観を考察する上でまず押さえておかねばならない重要な点の一つに、アイマスのファンの立ち位置がある。アイマスは本来的にアイドルをプロデュースするというコンテンツであるため、ファンはプロデューサーと呼ばれる。
一般に、ここでのプロデュースが指す行為は非常に多岐にわたると考えられる。第一義的には、本コンテンツの原点たるゲームをプレイし、アイドルを育成する行為を指すのは疑いの余地がない。
これに加え、広く受容されているプロデュース方法としてアニメ,CD,ボイスドラマ等の鑑賞である。


しかし、これらに共通する問題として存在するのが「ファンとしてのプロデューサーが主体的にその内容に関わることが出来ない」という点である。
これをどう解釈するのか。勿論、「製作サイドへの資金提供という間接的な関わりをもっている」という解釈も可能ではある。しかし、これはあまりにも迂遠な繋がりである。実際、これらの作品群の多くの場合において作品内に明確な人物としてのプロデューサーが存在する(ゲームも同様だが、ゲームではプレイヤー自らがプロデューサーを演じる点で区別される)。このため、ファンは否応なしに神の視点(非常に遠い視点)に制限されてしまうのである。

それにも関わらず鑑賞行為がプロデュースとみなされうるのは声優サイドによるそれらの行為のプロデュースとしての認定が主な理由であるだろう。鑑賞を通して自らがプロデュースに携わっているという意識を持つ人と持たない人の違いがこれを理解する大きなヒントになる。前者はなんらかの機会において出演陣がそれらの行為をプロデュースとはっきり述べるのを耳にして自覚を深める一方で、後者はその機会を持たないがために単なる鑑賞者・消費者に留まる現象である。つまり権威者としての声優(その正当性の源泉は後述)による認定により作り上げられる「意識」こそが鑑賞をプロデュース行為に昇華させるのである。
この説明における当然の疑問として浮上してくるのは、声優の発言がそれだけの正当性を持ちうるかどうか、という点である。ここに関してはアイマスの世界観の独特の緩さ(恐らく制作サイドが幾度となくパラレルワールドを作り上げたことから醸成された空気感)により、彼女達が十分な正当性を持つことが許容されていると考えるのが妥当であろう(この文脈において、彼女達も制作サイドと同様に創造神になりうる。これは声優の好みやラジオ等での発言がキャラにら活かされるなどといった事例に見られる)。
もう一つ忘れてはならない主なプロデュース方法がクリエイターとしての貢献である。これは作曲やリミックス、絵を描くこと等に加えて二次創作の制作を含むと考えられる。

アイマスは二次創作が最も発展したコンテンツの一つである。二次創作は自らをその世界観のプロデューサーと最も同期させやすい(特にSSに顕著に見られる)為、最も思い通りの展開をプロデュース出来る手段であるだろう。また、ニコニコ動画においてはアイドル(アイマスの登場人物としての意味)達はアイドルの仕事をしていないというストーリーも多く見られる(この場合は二つの解釈がある。一つは「彼女達ははドラマなどに出演しており、役者としてそのストーリーに登場している」という解釈。もう一つは「キャラの特色を保ったままではあるが、完全にアイドルの枠を飛び出した登場人物である」という解釈)。
クリエイターとしての貢献は最もダイレクトに世界観の生成にかかわるため、かなり有効なプロデュース手段だと言えるだろう。

 

今回述べる最後のプロデュース方法がライブへの参加である。多くのプロデューサーがライブへの参加を通してプロデューサーたる自覚をふかめている。これはステージをともに作り上げるという共感覚によるものだろう。
では、ファン(プロデューサー)は声優実際にステージが歌い、踊る姿をどのように解釈するのか?また、その際の自らと声優の関係性をどう捉えるのか?
これは非常に多くの見解が存在する問いではあるが、そのうちの幾つかを示したい。
一つ目は声優にアイドルを投影する解釈である。
二つ目は彼女達をアーティストと捉える解釈である。
この二つは多くのアイドルアニメに共通するものだと推測される(執筆者はその辺りに明るくないので推測となることをお許しいただきたい)。多くの場合、この二つの解釈は曖昧なうちに双方が所持され、場面によって使い分けられる。
また、アイマスライブに特異であるのは自らがプロデューサー(ライブの制作サイド)であり、ファン(ライブの消費者サイド)であるという両義性だ。しかし、この二つの立場は彼女達を応援し、成長させるという目標の点で一致する。それゆえ、我々は応援を通して彼女達との紐帯を確かなものとするのである。

 

次に、アイドルと声優の関係性について述べる。まずこれは個人的な意見が・感覚であることを強調しておく。
一般的に、ゲーム・アニメ等のキャラクターを演じるの声優は「中の人」と表現される。これは「キャラの内部に声優が入り込んでいる」という感覚によるものだと考えられる。
しかし、ここでは声優を「外の人」と捉える視点から論を進めていきたい。これは彼女たちが世界観の外側にいるという客観性をそのまま理解し、彼女達とアイドルの関係を簡潔に解釈するものである。

この視座が提供するのはアイドルと声優の対等性である。声優がアイドルの内側にあらず、外側にあることで声優からアイドルへ、またアイドルから声優へ同等程度のパワーを相互に行使し合いうるのである。実際、中村繪里子の発言によれば、確固たる天海春香像がまずあって、彼女がそれを演じる為には努力(具体例としては春香の絵などを持ち歩き、じっと見つめる、など)が必要となる。これは春香から中村繪里子へのパワーの行使と考えられる。反対に、中村繪里子の発言や行為、性格や趣味嗜好が春香に反映される際はこれを中村繪里子から春香へのパワーの行使と捉えうる。


では、ライブの際の両者の関係はどのようなものか?
ライブの際、トークパート等の存在などから、声優陣は基本的に自分自身のパーソナリティにおいてステージに立っていると考えられる。事実、出演形式としては〜(アイドル名)役である〜(声優名)としての出演となる。その一方で、彼女たちがアイドルに対し一体化を試みようとする態度は確かに認められる。これが顕著に表れるのが浅倉杏美が歌うFirst Stepだろう。この曲は作詞が彼女自身によるものであり(ゲーム内ストーリーとしては萩原雪歩作詞)、雪歩のストーリーに沿うような歌詞になっている。彼女はそこに共振性を見出して歌っていると言える。また、今井麻美は本人のブログにおいて、7th anniversaryのライブにで約束を歌ったのは私でなく「あの人」であった気がすると回想している。
彼女達がライブで歌を歌う際、その自己意識は時・場所・公演によって異なるものだと推測されるが、少なくともキャラとの同一化を試みる心理的傾向が働いているのは間違いないのである。

 

彼女達とアイドルとの関係を考える上で、もう一つその一助となるコンテンツがある。アイマス関連ラジオである。現在まで何本ものアイマス関連ラジオ番組が放送されてきたが、それらのコーナーのなかではミニドラマが演じられることが多くあった。これらのミニドラマは前述の声優→アイドルのパワーの源泉となるのに加え、非常に興味深い点がみられる。
一つがアイドルと同次元の、登場人物としての声優である。以下に例を挙げる。
THE IDOLM@STER STATION‼︎!のミニドラマにおいて、響が沼倉愛美に話しかけ、沼倉愛美が返答するというケース。
このケースは設定が不明であり、ストーリー構成は声優のノリとアドリブによるものであることすら伺える場面もある。ただ、キャラとの関係は親友と考えられるような描写が多い。また、声優名義でのコーナーにキャラが登場するという場合もある。
・ラジオdeアイマCHUの場合
このラジオにおいて声優はオーディションを受けるアイドルであり、キャラと声優の関係は同僚・同じユニット(ハニーシトラス)の仲間と表現できる(冒頭の自己紹介は「ハニーシトラス星井美希役、長谷川明子です。」という表現であるため、解釈の分かれるところではある)。
ここまでの例によれば、ラジオではより関係性が流動的で固定化されていないものであることが分かる。原因はメールや構成作家、声優からのキャラへのパワー行使だろう。これによりキャラは様々なスケールとして現れ、結果として声優とキャラの関係性が変化するのである。

 

以上で考察を終えるが、アイマスの世界観には今後も次々パラレルワールドとして追加されていくだろうし、876,961,346,315等との関わりも無視することはできない。もう765プロのプロデューサーとしても、もう「賽は投げられた」のであり、その他の世界への柔軟な対応、楽しもうという気概が求められる。そういう態度がコンテンツの持続と良質性の維持につながるのである。

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